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M-4(ロシア語:М-4エーム・チトゥィーリェ)は、ソ連のミャスィーシチェフ設計局において開発された戦略爆撃機である。 DoDが割り当てたコードネームはType 37。NATOコードネームでは「バイソン」()と呼ばれた。なお、中期型は当初M-6(М-6エーム・シェースチ)とも呼ばれたが、その後は3M(3Мトリー・エーム)の名称が用いられるようになった。名称は異なるがM-4、M-6、3M各型は同じシリーズの機体である。 == 概要 == 1940年代末から1950年代初頭にかけて激化した冷戦の影響でアメリカ合衆国とソ連は互いに核戦力の充実と、それを敵地に向けて投下する為の戦略爆撃機の開発に力を注いでいた。 当時アメリカはB-36・B-47・B-52といった爆撃機を送り出し、ソ連に対しての威圧感を強めつつあった。一方、第二次世界大戦を終えたばかりのソ連にある爆撃機といえばほとんどが、小型のPe-2やTu-2などであり、これらもジェット戦闘機が台頭してきた時代においては戦力として期待できるものではなかった。 その為、ソ連はB-29戦略爆撃機をコピーしたTu-4において高度な戦略爆撃機の開発技術を会得して以降、一挙にTu-80・Tu-85・Tu-16といった機体を製造し、新世代の戦略爆撃機の開発を模索するようになった。 M-4とTu-95はこうした状況下における「新しい革新的な技術を用いたアプローチによって開発された機体」と「従来からの保守的な技術から作成された機体」という関係の元に作成された(もっともTu-95の高速ターボプロップエンジンは、現代においても凌駕するものが無い優れた先進技術である)。 「革新的な技術」の側から開発されたM-4は登場すると同時に西側に甚大な脅威を与え、ボマーギャップ論を巻き起こした。 しかしながら、「革新的な技術」であった当時のジェットエンジンは長時間の飛行には適さず、M-4バイソンは戦略爆撃機として必要な航続距離を得ることができなかった。その為、戦略爆撃機としての任務はTu-95が引き受け、M-4は輸送機や空中給油機として用いられる事となった。 M-4は1963年までに93機が生産された。最後まで使用されたのが空中給油機型で、1994年まで使用された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「M-4 (航空機)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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